たまごのかけら

広く、深くを目指す雑食系ブログ

弱者が生きやすい世の中ってなんだろう

以前も書いた通り、わたしは8月頭にウイルス性胃腸炎と診断された。
その後、風邪をひいた。珍しく、長引いて今もまだ多少引きずっている。
 
 
寝込んでいると症状自体は良くなるのだけど、体力は落ちるし気力もなくなるし、心の健康にはよろしくないなあ、と思った。
 
 
自分が体調悪いと、身近な人たちの苦しみが少しだけ、わかるような気がした。
 
身近な人たちというのは、精神的に様々な苦しみを抱えたり、体が弱くてなかなか思うように生きていけない友人などのこと。亡くなった兄も含まれている。
 
 
 
もともとわたしは体が丈夫なほうで、風邪で学校を休むことはまれだったし、甘やかされた末っ子の人生で生きるのに支障をきたすほどの苦しみはなかった。ごく一般的な生活ができていた。
 
 
故に、精神障害に対する理解もなく、兄が精神科に通っているらしいことを知ってから、兄は軽蔑の対象だった。
中学、高校時代のわたしが将来の希望に満ち溢れていた頃、夢も希望もない、口数も少ない、薄暗い顔で自分を卑下することしかない兄のことが嫌いだった。
 
 
数年前に兄が亡くなったときも、驚き悲しみはしたが、なぜここまで家族を追い詰めることをしたのだろうと、責める気持ちさえあった。いつかこうなるんじゃないかと、心のどこかで思っていた自分を認めざるを得なかった。そのくらい、心の狭い人間だったのだ。
 
 
しかし兄の死後、両親の心痛は悲惨なものだった。兄が死んだということより、両親が悲しんでいることのほうが辛かった。
 
 
そして大学生活の中、周りには似たような人が何人もいることを知った。不安神経症自律神経失調症パニック障害…など様々。
 
 
ある友達の自殺未遂を止めたとき、後に「命を助けてくれてありがとう」と言われた。そうか、わたしは人の命を救ったのか、と頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。子供に先立たれた親の気持ちは見てきたから、そんな思いを親に味わわせてやるな、の一心だったから。
大学一年の夏であった。
 
 
そうした出来事以来、わたしは生きるのが辛い人をどうやって助けられるか、考えるようになった。真面目に心理学を学ぼうかとも思った。これ以上身近な人に死なれたくないという一心で、何度も友達の相談に乗ってきた。だって友達は皆いい人ばかりで、多少障害を抱えているということ以外、何も特別なことはない人たちなのだ。むしろわたしよりも友達が多かったり、楽しそうにしていることさえある。
 
 
それでも、わたしは医者でもカウンセラーでもなく、友達として支える限度があることを突きつけられた。最初は根気よく話を聞いていても、同じ話が幾度も繰り返されると、正直素人のわたしにはイライラしてしまうし、新しい解決策も提示できなかったりする。
 
 
どうしたらいいのか、行き詰まることばかりだ。何もできない自分に嫌気がさすこともある。
 
 
むしろ、人を傷つけてばかりの自分がいる。
 
 
そんなこんなで結局、普段は何もできずに、本当に困ったときだけ、生きていいんだよと、寄り添って励ますことしかできない。
 
 
それでいいのかな。
 
 
一応健康なわたしですら将来に不安ばかり抱える世の中なのに、もっと大変な思いをしてる人たちが生きていける場所は、あるのかな。
 
 
偽善だと思われるかもしれないけれど、相模原の障害者施設の事件を見て、少なくとも誰も死んでほしくないし、死ぬべきでもないと、思うのは確かだ。
 
 
身近に深刻な状態の人がいないと、他人事になってしまうのだろうけど、世の中には少なからず苦しみを抱えた人がいるということ、その人たちにも大事な家族や友人がいること、生きていてほしいと思っている人がいることだけは、知ってほしい。
 
 
世の中に、もっと優しさがあればいいのに。