たまごのかけら

広く、深くを目指す雑食系ブログ

メンタル強いのはいいことなのか

わたしは、メンタルが強いとよく言われる。それはもういろんな意味で。
 
小さい頃から、親に叱られてもどこ吹く風だったらしい。全然こたえなかったから叱り甲斐がなかった、とも言われたくらい。
 
実際少しはしょげていたけれども。
 
 
自分では結構落ち込んでいるつもりでも、周りから見るとそうでもないらしい。立ち直りが早いともいうか。
 
切り替えが早いんだろうな。
 
悩んでも仕方ないと思えば、あっさり割り切って次へ進めてしまう。
 
 
最近になってときどき、その強さを自覚したとき、自分でも怖いと思うことがある。
 
 
 
以前、ある人に言われたことがある。
 
メンタルが強い人は、それが弱い人のことを理解できないんじゃないかと。なんでそんなことくらいで悩むんだと思われそうだ、と。
 
 
そのときは、そんなことはない、と思った。メンタルが強いことはイコール人の器の大きさだと思っていた。
自分のことで悩んでいたら、他人の悩みや相談を聞く余裕もないだろうから。人を受け入れるための強さだと。
 
 
と、本気で思っていた。
 

 

それが今になって揺らいでいる。
 
 
結局、自分が強すぎて人の痛みなど分からなくなっていたのではないか、という罪悪感に苛まれた。
 
 
よく、先生になるにも勉強が得意だった人よりも苦手だった人の方が適する、という。勉強ができない人の気持ちがわかるからだろう。
 
 
それと同じで、人の気持ちに寄り添うためにも、メンタルが強すぎるのも良くないのだろうと、うっすら思わざるをえなくなってきた。
 
 
 
一応言っておくと、昔は自分ではメンタルは弱いと思っていた。
 
 
小学校時代のいじめに始まり、中高時代の孤立、受験のとき危うく浪人しかけたことや、立て続けに起こった祖母と兄の死、失恋、
 
どれも、そのときは人生が終わるんじゃないかと思うくらいに、泣いたし、動揺した。
 
 
様々な苦労を経て、強くならないと生きていけない、と気づいて、そうならざるをえなかったのだ。
 
 
結果として、ちょっとのことでは動じない、メンタル瓦並みの人間になってしまった。
(最初からそうだったのかもしれないが、その自覚ができた。)
 
 
おそらく、メンタルが強い人や何事にも動じない人でも、最初からそんな強い人ってそういないと思う。
生まれつき肝が座った人もいるかもしれないけれど。
 
 
思考整理のためにこの記事を書いていたのだけど、メンタルが強いのがいけないのではなくて、必ずしも強くなれない人もいることを、忘れちゃいけないんだってことなんだろうな。
 
 
人の気持ちに寄り添うって、難しい
 
 
そんな二十歳の夏
 

 

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禍のもと

 

小さい頃から、わたしのおしゃべりな口から出てくる言葉の数々は、いつも不穏なこと招いてきたらしい
 
 
要らぬことを言っては怒られ、余計な口を挟んでは白い目で見られ、空気を読めと言われ、それ本気で言ってるの?と驚かれ、毒舌を吐いては実は人を傷つけていたり
 
 
口に出す前に3秒考えろ、と散々親に言われ続けて早20年
 
 
口は禍のもと、ということわざがぴったりだ
 
 
 
 
ただでさえ問題でしかなかった口は、ひねくれた性格とともに成長するにつれてますます手に負えなくなった
 
 
中高時代の友達の影響で、毒舌クールなキャラを自分のものとするようになった
 
 
ときには度が過ぎて、「友達にそれは言い過ぎだよ」と笑いながら宥められることもあった
 
部活の友達とやりあって、顧問にもわざわざ呼び出されて「さっきのは言い過ぎじゃない?」と穏やかに言われ、自分が認めてもらえないのだと、悔し泣きしたこともあった
 
 
笑って済まされる毒舌キャラだけならまだしも、いつしか本気で人を批判する方向へとシフトしていたのはいつ頃だったか
 
 
傲慢にもほどがあるだろう
 
何様だと思っていたのだろう
 
 
 
いつからだろう、こんなに人を傷つけることしかできなくなったのは
 
人を傷つけたくないとか言いながら、一番傷つけていたのは誰だ
 
 
散々親からも注意されていたのにどこ吹く風で聞き流し、結局その報いを受けるのは自分。
 
自己嫌悪でそろそろ死にそうだ
 
 

自分の感受性くらい

 
ここ数日、恋愛問題に頭を悩ませていた。特別何かあったわけではない。
むしろ、何もなさすぎることが問題であったような気がする。
 
 
付き合って約半年といったところである。
 
付き合い始めの脳内お花畑時代は卒業し、落ち着いてきたはずなのだが。
 
かえって冷静になりすぎて、ときめきが足りないような気がしていた。
 
 
心が乾いていた。好きがわからなくなった。
しかしそもそもときめきって何だ。
 
 
考えれば考えるほど思考は頭の中でぐちゃぐちゃに絡まり、相手に当たることばかり。
自分でも何をしたいのかわからなかった。
 
 
自分の体調が悪く鬱憤がたまっていたのかもしれない。
 
 
思うままに相手を傷つけるだけ傷つけて。
 
 
ちなみに別れようとかそんなことは1ミリも思っていない。
 
笑われるかもしれないが、一生人生を共にしようと二人で約束して、本気でそれを信じているから。
 
だから、手放すわけがない。諦めるわけもない。
 
 
 
 
 
今回のタイトルを見て、パッと何のことか思い浮かんだ人もいるだろう。
 
 
そう、茨木のり子の詩の題名から拝借した。
今の自分にぴったりだと思ったからだ。
 
心が貧しくなったと感じたときには、いつもこの詩を読むようにしている。
 
例えば第1連から、もうわたしの心をグサグサ刺しにかかってくるのである。
 
 
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
 
 
その通りなんだよ。
 
 
全文を知らない人は、ぜひググって…いや、本で探してみてほしい。
割と有名な詩だと思うけれども。
 
 
わたしは高校の国語の授業でこの詩を知った。あまりの衝撃に、感動に、そのときもらったプリントは、今でも大事にとってある。
 
 
ググれば一発で詩くらい読める時代だけど、あえてすぐに知りたい衝動を抑えて、そのプリントを探した。
ただでさえ心がすさんでいるというのに、ネットというツールに甘えて心の貧しさを悪化させたくはなかった。
 
 
久しぶりに読んで、貧しくなった心に、少しうるおいが戻ってきた。
 
 
結局ここでこんなことを書いて安心させようとしている自分がいて、
 
自分勝手なのはどっちなんだろうね。
 
ちょっと触れ合えばきっと好きが戻ってくるのに。
 
自分がばかものだよ。本当に。
 
 
 

20歳になったわけですが

突然ですが、先日部活の合宿がありまして、その間に誕生日を迎えました。
無事20歳になりました。お酒が飲めるの嬉しい。
 
 
…とはいえ合宿直前に胃腸炎になり、合宿委員だったので休むわけにもいかず、なんとか薬持参で行ったものの委員の中では常に問題がくすぶっており心労が絶えず、最終日には調子乗ってオールまでして、帰ったら疲れてぶっ倒れてました。
 
 
で、気がつくとまた喉を痛めていて、結局薬も飲み直しです。
 
 
やれやれ。酒どころではない20歳なのです。
 
 
 
さて、今年は合宿中だったこともあり、過去に例を見ないほどたくさんの人が祝ってくれました。
 
 
誕生日が夏休み中で、もともと大勢の人に祝われる機会が少なかったわたしにとっては、とても新鮮なことでした。
 
 
まあ散々宣伝していたからなのだけど。それでも友達に囲まれて誕生日祝ってもらえるって、幸せなことなんだなあ、と思います。
 
 
幼い頃は、とにかく誕生日プレゼントが欲しかった。誕生日は欲しいものがもらえる日だと思っていました。
おそらく、友達に囲まれて祝われる、っていうことがなさすぎて、その楽しさを知らなかったんだと思います。
 
 
それが今になって、物欲がほとんどなくなった自分がいて、プレゼントなんてほとんどなくても何とも思っていない自分がいます。
 
 
だって十分、周りの人に好かれて、大事にされている実感があるから。それだけで、わたしの心は満たされるし、生きててよかったと思えるから。
 
 
何だか小さなところで成長したような気分。その他多くの面ではまだまだ子供すぎて、親からも未だに赤ちゃん扱いされることも多々あるのだけど。
 
 
ちゃんと中身も大人になりましょう、なんてありきたりなことはわかっているので。
 
 
すぐには大人の実感はわかなくても、少しずつ将来のことも考えつつ、残り少ない人生のモラトリアム(大学生)を楽しもうと思います。
 
 
とりあえずブログ書くぞー。
 

趣味がない?

あなたは人に語れる趣味がありますか?
 
わたしはとにかく多趣味。いろんなことに興味を持ってしまう。よってやりたいことがやりきれない始末。
 
 
だから、趣味がない、っていう人の気が知れない。
 
 
趣味は音楽鑑賞です、とかいう人にも本当か?と突っ込みたくなる。
 
音楽鑑賞?映画鑑賞?ゲーム?読書?
どんなジャンルが好きなの?
 
本当に好きなら自己紹介のときにもういいからstop!!!って言われるくらい語ってみろよボケェ
 
 
例えば4月は自己紹介の時期だから、わたしにとっては自分の好きなことを語れる願ってもない機会なのだけど、多くの人はそうでもないらしい。趣味と聞かれて困る人を今までに何人も見てきた。だいたい上記のようなことを先生に突っ込まれると、何も出てこない。
 
 
そういう人って、後々印象に残らなくて覚えにくいから、頼むから人をあっと言わせるような自己紹介をしてよ。
 
 
ってまあ自己紹介の話じゃないのだけど、実際自分の好きなことについて熱く語れる人って他人の印象に残りやすいと思う。新しい人を覚える側からしてもその方がいいと思わないか諸君。
 
 
今はまだ学生だけど(大学生です)大人になっても、人と出会う機会はいくらでもある。語れる趣味はいくつあっても多すぎることはないはずだ。
 
 
しかし趣味がないあなたはこう言うんだろう。
「やりたいことがない」
 
 
ほんとに?趣味がないからストレス発散に食べることしかできない?
食べることしか興味ないなら単にお腹を満たすだけじゃなくてもっと真剣に食べ物について深く考えてみたらいいじゃない。
 
 
アニメやゲームもまた然り。一般的に否定されがちな分野だが(特にわたしが否定的)、そんなに好きならちゃんと人に語ってくれ、って思う。このキャラクターのどこがいいとか、この音楽とこの絵がいいんだよとか、物語としてどこが素晴らしいとか。その楽しさを人に伝えて初めて、趣味と言えるんだと思うよ。
 
 
「好き」という感情に理由はないけれど、どこがいいのかをある程度説明することくらいは、できるでしょ。
 
 
一生懸命伝えて、必ずしも「伝わる」とは限らないのはわたしも重々承知している。わたしの趣味といえる猫の写真撮影(さりげなく宣伝してみる笑)に対する熱弁は、たいていの人には笑って流される。そこに突っ込んで感想をくれたり興味を持ってくれたりする人もいるのだが。
 
 
とりあえずまあ、わたしはこの趣味のおかげで身近な人には「猫の人」という覚え方をされることが多い。刷り込み成功である笑
 
 
趣味がないという人の多くは、実際好きなことが全くないわけではなくて、人にその良さを語りきれていないだけなのではないかな。もしくは語る気がないか、語彙力がないか。本当に好きなことがないのか。
そしたら救いようがないけれども。
 
 
とにかく、好きなことを語ってほしい。
 
 
好きなことが見つからないなら、探せばいい。どこを見るかの問題ですよ。
 

手帳活用のすゝめ

どうも、体調不良により寝たきり病人生活の78です。
というか今のところ身内向けなので名乗ってなかったのですが、78ということにしておきましょう。
 
寝ながら、暇していたので、いろいろ考え事をしていた。
 
直近の合宿のこと、恋愛のこと、将来のこと。
 
まあ考えた内容はまた別の機会に書くとして、それを思考整理のために愛用の手帳に書き綴っていた。
 
 
もともと書く作業は好きなので、手帳は予定だけではなく実際にあったことや思ったこと、課題のto doリスト、本からの気に入った引用や授業のとっさのメモなど、なんでも帳みたいなところがあったのだ。
 
 
それを見返してみると、この半年ちょっとでいかに充実した生活をしていたか、目に見えてわかるような気がした。
今まで手帳をろくに活用してこなかった自分を少し後悔。
 
 
今年はある程度の大きさの手帳を選んだのも正解だった。
今までは手帳を持ってさえいなかったり、やっと買っても使わなかったり、買っても最小限の予定しか書き込めない小さなものだったり。
 
 
メモ欄がたくさんあるのがおすすめ。用途を決めず、思いついたことや気づいたことはなんでもサッと書き留めておくこと。
 
 
ブログもそうだけど、やっぱり文字にしてみると違うんだなあと思う。あとから見返したときに、見ていて飽きない中身のものがいいよね。
 
 
まだまだスペースをケチってありあまる余白を残しているわたしの手帳は、今年の役目を終えたときどんな一冊になっているのか、今から楽しみである。
 
 
 

ポケモンじゃなくたって、いいじゃない

ポケモンGO、始めました。
 
もともとゲーム嫌いのわたしが始めるきっかけとなったのは、わたしの一番大事な人であるところの彼氏(M氏)があまりにも楽しそうにやっていたから。
そして、社会現象と言われるほど周りじゅうやっていて、それほどのものなのかと興味を持ったから。
 
で、やってみた。
 
結果、3日ほど夢中になってやってしまった。
ポケモンに興味はなかったのだが、従来のゲームには見られなかったデザインの綺麗さと(ビジュアルの良さには負ける)、外出する目的にもなるというところが、今回ゲームを認める理由となった。
 
引きこもりのわたしですらポケモン探しに行かなきゃと、外に出るようになったのだから、効果は抜群なはずであった。実際、ポケストップをめぐっていると、今まで知らなかった場所を知ることもあり、新しい発見もあるし、わたしがポケモンをやるようになって彼も喜んでくれるし、なかなか悪くないのではないか、と思い始めていた。
 
ところが、たかだか3日だが、ポケモンに夢中になっている自分に疑問を感じるようになった。確かに面白さはあるし、初めて彼氏とも同じゲームの話題で盛り上がれて嬉しかったのではあるが。
 
これだけじゃ、人生面白くないよね。
 
1日ポケモンのことばっかり気にして、モンスターボールが足りない、レアなポケモンを逃しちゃった、とかそんなことばかり考えて生きていくのは、短期的には楽しくても、長い目で見ると、とても時間を無駄にしている気がしてならなかった。外に出る理由になるとはいっても、見ているのは小さな画面だけ。歩きスマホを助長させ、時には自転車に乗りながら、という人さえいる。危なくてしょうがない。全くやらない人たちから見たら、迷惑極まりない流行だろう。
 
別にやるなと言いたいわけじゃない。たまにはちょっと顔を上げてみたらどうだろうか。先日ポケモンGOを片手に代々木公園を散歩していたときに、ふと立ち止まった横に鮮やかな花があった。周りのポケモン勢は、そんなものに目もくれず、地面に座り込んで画面ばかり見ていた。つまらない人たちだな、と自分を含めて思った。ちょっと見渡せば良い眺めもあり、綺麗な花が咲いていて、園内をサイクリングしている人がおり、歌を歌う人がいる。せっかく世の中いろんなことがあるのに、画面の世界だけにとらわれているのはもったいない。
 
そう気付いて、今日は1日、スマホを見ないで過ごしてみた。
 
わたしもツイ廃と呼ばれるほどのTwitter中毒であるので、人のことは言えないが、それでもたまにスマホを使わない趣味の楽しさを思い出して、無性にやりたくなる。
 
久しぶりに鉛筆を出して、絵を描いた。食卓に置いてあったニコリのパズルを解いた。ヨシタケシンスケさんの新刊があったので、パラパラめくってみた。気づかないだけで、世界はいろんなもので満ちている。終わっていない課題のessayを書いた。朝ドラを見た。ドイツ語の入門書を読んでみた。中国行ったらどんなだろうと想像をめぐらせた。言いたいことを吐き出すためにブログを書こうと思った(今書いている)。今はまっている本の続きを読んだ。久しぶりに心が洗われたような気分になった。
 
たくさん楽しいことあるじゃない。
 
ポケモンがなくたって、ゲームがなくたって、生きていけるはずなんだよ。
 
だって楽しいことは他にいくらでもある。それを見つけられるか、見つけられないか。
 
 
それだけ。